昭和46年07月23日 月次祭
信心をさせて頂いて有り難いのは、お願いをしておかげを頂くという事も有り難い。けれども、神様のお働きを、日々、刻々に神様のお働きの間違いなさを心に感じさせて頂きながらのおかげは、もっと有り難いのであります。信心生活とは、私は、そういう生活の事だと思う。神様のおかげをね、いつもそこに感じておる。信心してお願いをしておかげを頂く、願いが成就する、その事も有り難い。
けれどもね、その有り難いのは、自分の願いが成就しないと、神様がおかげを頂かせきんなさらじゃったごたる思いがする。そして、頂いたおかげまで、あん時のとは腑がよかったっじゃろち言うぐらいになってくる。信心生活とはね、神様の働きを、そこにも、ここにも、神様のお働きの間違いなさ、この様な働きの中に、自分が日々おかげを頂いておるという事が有り難いとわからせて頂く生活を、信心生活というのであり。そういうおかげを、一つ感じさせて頂くほどのおかげを頂かなければなりません。
今日は、前講を幹三郎が務めておりました。私の三番目の息子です。今、今年高校に行っておるなら、高校二年生。中退をいたしまして病気のために。そして御道の教師にお取りたて頂きたい。生涯を宗教家として、人の助かる事のために、自分が助けて頂いたから、人が助かる事のために、自分の生涯を捧げようという、けなげな精神がね、学校からも、とにかく随分長く休みましたけれどもね。
幹三郎君ならまだその落ちなくてもいいんだと。だから先生を初め友達も皆、ここにみえてまた勉強を継続するように言ってみえましたけれども。僕はどうでもこれを機会に宗教家になるんだからと、はっきり私の前で応接間で皆に申しました。大坪君がそれほどの固い決心をしておるなら、建築家になるのも宗教家になるのも同じ事だから、君しっかりやれと言うて、先生が元気をつけて帰られました。と言う様に一心発起したわけです。幹三郎が、自分で申しましておりますように確かに兄弟一番にお話が下手です。
けれどもね、お話が上手とか下手ではない。問題は人が助かる。この頃修行生の方達が、ずっと交代で日々の色んな、神前奉仕の御用をさせて貰う。その人が当番になった者が、御祈念なんかでも、先唱をするというように。だから夜の御祈念が終わっての御理解まで担当するわけであります。これはですね幹三郎の当番の時にはね、もう皆おかげを頂くのです。あれはお話が上手だからね解らせきったから、また分かったからおかげ頂くのではない。やはり取次の者の一生懸命にあると私はいつも思います。
いうならば言うばっかり口ばっかりの先生の所に、聞くばっかりの信者という風に、私は神様から頂いております。どんなに素晴らしいお話が出来ましても、あれだけお話が上手な先生の所で、どうして人が助からんじゃろうかという所が沢山あります。いわゆる口ばっかりはむごう言いなさるばってんが、信者はそのかわり聞くばっかり。口ばっかりの所にやはり聞くばっかりの信者と。是はもう一時が万事のおかげに繋がる事なのです。ですから今日私が言う、おかげを実感するといったようなことでもです。
おかげを実感すると言った様な事でも、いかに有難そうに言うておってもです、心に有り難いものの実感がなかったら、それはおかげには繋がりませんもん。お話相手でも自分の心に感じておる事がです。有り難いものが何とはなしに神様に通う。それがおかげにもなりゃ、又、それを伝えた話を聞いて人が助かる。はぁ幹三郎さんが話しをもう先ば言おうと思いよることまで分かる様な感じ。一生懸命にお話をするそれでも。今日もそれを申しておりました。僕はお話が下手だ。
けれども下手は下手なりに、僕は一生懸命にお話をすると言うております。しかも神様が、僕はお話が下手だから、今日などは三人からも今日は幹ちゃん、あんたの当番よ今日の前講はあんたですよと言うて、三人からも次々注意を受けた。その注意を受けた時にです、彼は神様をそこに感じておるですね。私はそこん所の思いを聞きながら、本当に感動した、私自身も。素晴らしい素晴らしいと思うて聞いた。幹ちゃん今日はあなたが前講よ。あちらでも、それを言われ、こちらでも言われた。
はぁ神様が僕がお話が下手信心が出来んから、さあ今日は前講だからしゃんとせろよと神様が言うてござるように聞こえたと、こう言うのである。そこにもう神様の働きを感じておるでしょうが。その有難さがです、あのお話になってきた訳なんです。そこを自分は皆さんに分かって頂きたいと思うて、一生懸命話しておる訳です。僕はお話が下手だと。お話は下手だけれども下手は下手なりに、一生懸命に僕はお話をするち言う。それがち言うことじゃない。
私共にそれこそ、感動を呼ぶほどしに有り難いものになって伝わってくる。そして私は、今晩の御理解を思い、ははぁ今晩の御理解はこれだなと思うた。信心生活とはね、私共が、日々刻々、そこに、その場その場に、そこに神様の働きを感じさせて頂くほどしの信心。そういうおかげを、本当のおかげと言うのであり、そういうおかげをです、頂いておる人の生活を信心生活と言うのであると。はぁ有り難い有り難いと言いながら、不平不足を言う。ふしだらな事を、本当に有り難いと思うておる時にはね。
そういう不平不足は起こりません。本当に有り難いと思うておる時にはです、大げさに言うと、我情すら我欲すらありません、有り難いなぁと思うておる時には。そこに生きた神様を、そこに感じておるでしょう。はぁ神様が、こういう誰彼を通して、働いて下さる事を感じるのですから。だからね、その有難さが頂ける所まで、お互いが信心修行をせにゃいかんのだ。この21日は、親教会のお月次祭。
引き続いて親先生の古稀のお祝いが、お祝いと言うか古稀の御礼祭というのが、あちらの総代、久留米の総代、あちらの兼務教会長をしておられますからね。それから出社、子供主催の元に行徳先生が、御祭主なさってお礼のお祭りがございました。私共も夫婦でお祝いを申させて頂くために、ご参拝のおかげを頂きました。それから後がご直会という事でございました。とっさに岸先生が私に、大坪先生出社を代表して挨拶をしてくれと言われる。もうとっさの事いくらとっさでもね。
ここでならばまぁその時に、まぁ口から出まかせ、それがそのまま神様のお働きだと、私は信じておるから、それを聞いてもらうんだけれどね。全然私を知らない人達ばっかり。しかも偉い先生達が沢山並んでおられる中で、出社を代表してお話をせろと。私じゃいくまいもん、あんた星野も先輩がござるし北野もござるし。星野が若いし北野は御親戚にあたるからとこう言う。仕方がないから、ほんならおかげ頂きましょうと言うて、お話させて頂いた。
そのお話をさせて頂いた後に帰りの車の中で、若先生が今日の御理解は、いや挨拶じゃなくて御理解だった。けれども先生達でもわかりゃするまいと。まるきり親先生に対する御理解のごたったと言うてから、車の中で申しますんです。本当の親子が一生懸命に私の実感を親先生に出社を代表してお礼を申し上げたつもりであった。その中に私はこういうような事を話させて頂いた。親先生と言うたら親先生が私のこっちを、親先生と私がおろぅだもんだからこっち向かれた。
それから親先生に私がお話をさせて頂いた。これは皆に聞いてもらうのじゃない、親先生にご挨拶を申し上げるのですからね。親先生最近私は切にしみじみと感じさせて頂きます事は、ようもようも私は、三井教会にご縁を頂いておったと言うことを有り難いと思います。親先生私は最近しみじみ思います。それは現親先生を師匠とし得ておったと言うことを、もう本当に心の底から有り難いと思います。先生が有り難い事です。その事を有り難いと思うておる時には、不平もありませんし不足もありません。
いや大げさのようですけれども、我情すら我欲すら消えて行くように思います。といったような事を申しました。百日間からの病院生活をなさった後に、丁度このお祭りに間に合われるように、退院のおかげを頂かれた。お体はまたまだ全快ということではないそうでございますけれどもお話を承りますと、それこそ医者から言うたら奇跡というほどしに、多い時には3キロも散歩をなさる。毎日2キロぐらいは散歩される。それだけでも医者が不思議と言う。
もし信心があるなら、おかげですなぁと言うのだろうけれども、信心がないから、ただ不思議だと医者は言うと言うて、親先生が話して下さった事を、それを聞かせて頂いて、いかにこの度の親先生の御病気が、何という病気の名かは知りませんけれども、何という病気の名の神様のご都合であると言うことを、私は思わずにはおられません。その事を通して、どうぞ御神願が御成就に相成りますように、という様なご挨拶をさせて頂いた。その事を通して御神願が成就に相成りますように。
これは親先生の事だけではない。私共もそうです。さまざまな難儀な事これほども間違いのないお働きを頂き、お取次のおかげを頂かせて頂いておる中に起きてくることであるから。それは、私でいうなら、糖尿病と言われるけれども、糖尿病ではない、糖尿病という名の神様のご都合だと、私は頂いておるように。ここには難儀に見えるけれども、それは難儀ではない、神愛の現われがです、神様のご都合が、そのような形にして現われておるのであるから。
どういうご都合であろうかと分からせて頂く所から、その難儀が元になって、そこから一段進歩の展開。そこから有り難いおかげになってくる訳なんです。だから、親先生がです、そういう挨拶をさせて頂きました。今、私が申しました通りを申しました。まだ後先の事がございましたけれども、中心になる事はそういう事でした。それを若先生が聞きながら、今日は、まるきり、親先生に対する御理解のごったったとこう言う。私共が、日々信心の稽古をさせて頂いてです。
例えば普通から見れば、そこは難儀のようであるけども、その難儀すらも神様の止むに止まれん働きとして、そこに感じ取らせて頂く心が信心なのです。そういうことになるでしょう。お互いが、同じ合楽にご縁頂いておりましても、やはりそれぞれのおかげを頂いております。それぞれの性格、私の信心を一通りは皆さんがマスターしなさらなきゃいけん。そして、そこに皆さんの個性が溢れるほどしの信心になられても、それは結構。これは、個性というものは、どうにも仕方がない。
私は今装束を着させてもろうて、是を上野先生に今日は縛って貰った。そしたらあ痛ち言うごとぱっと締めるんですね。その勢いたるやこりゃもう皆さんがご承知の様に、何時も三橋先生がしてくれるですよ、久富先生より。そすとゆうるしてからこげんしてお話しよるとこげんして解けてしまうこげんなる。そうでしょうが今日は上野先生が、あ痛ち言う位こう締めといてからこうやってほんなごて上野先生に言いました。本当性格がそのまま装束をつけて貰うそこにでも感じる事が出来るねて性格ですから。
どちらが良いの悪いのじゃない。だからそれぞれにそういう性格を頂いておるのですから、それぞれであって良いのです信心は。けれどもね只今私が申しました様な事は、これは、善導寺の親先生であろうが私であろうが皆さんであろうが同じ、その基本姿勢というのは同じなんです。幹三郎の前講を聞かせて頂きながら、成る程一生懸命のものには勝たんなぁと。今日も私ここを下がってから部屋に参りましたら、幹三郎が休んでおりましたが、ぱぁっと飛び起きました。
夕べはマルショウの事で、夕べはほとんど休んでおりませんです。大体あの人は早うしもうても休みません。ただテレビの所の椅子にこうこしよるけど、そのままテレビ見ながら眠ってることはあります。もう後ろの方を抜き足差し足で何時でん通ります。だってああやって生身をもっておるのですからね。それでも一生懸命がです彼をそのように一生懸命に駆り立てる訳です。今日は夕べ休んどらなかったからちょっと休んだんでしょうけれども。私共が高橋さんと二人で入りましたらぱぁっと飛び起きます。
夕べは休んどらんけんで、まあしばらく休まんのと言うたけど、布団片付けてマルショウの服に着替えて外にでました。という様にですね一生懸命なんです。それもどこにその一生懸命を置いておるかと。皆さんも朝参り夜参りをなさる。何十年間という間、熱心に信心をなさる。けれどもね、私は肝心要のところがです、どこか抜けておるのじゃなかろうかと思うです。皆さんの信心と幹三郎の信心を比較したらこれは雲泥の差がございましょう。けれども目指す所を目指してその基本姿勢を作って。
そしてそれに一歩一歩近づこうとしておる事は間違い無いのです。だからまだ僕は神様のおかげと言った様なものを、まだ感じ取りはきらんと自分でも言うとるです。有り難いと言う事も分からん、けれどもなんとはなしにと言う様な事が感じられると言う。けれどもやはり一生懸命精進しておる。精進しておるから例えば五分かそれが十分ぐらいのお話ですけれども、そこに何か人が助かる筈だと思う様な話しをする。今日の昼の御祈念の後の御理解が「ここには信心のけいこに来る所」と言うあの御理解でしたね。
最後にも「まめな時、信心の稽古をしておけ」と言う、始めに信心の稽古と仰り一番最後の所に「まめなとき信心の稽古をしておけ」と言うあの御理解でした。これは毎日そこの所を開かせてもらって、若先生が御祈念にかかったと同時に、私はそのことをお願いします。そしたら今日は神様からですね、初めて私は見せて頂いたんですけれども、野球場をみせて頂きました。もう観衆席に一杯、観衆が野球を見物しておる。なかでは野球の試合があっておるという情景を頂きました。
それであそこの塗板に書いてあるような御理解になったわけであります。信心のけいこをする、しかもそれは、まめな時に信心の稽古をしておけと言うことは、お互いが困った時に信心をする。だから稽古にならん。なんか貰わんならんけん、信心をお参りをしよる。だから稽古にはならん。一つまめな時というのは平穏無事、何もないただ御礼申し上げるばっかりと言った様な時に稽古をしておけと言うのである。だからあそこを取り違えんようにしないとね。
ははぁ金光様の信心の稽古ちゃもう休み休み、わがよか時でよかばいのち言うごたる気がする。そうじゃないまめな時、ここへ参って信心の稽古をしておけと。何でもない時に、ここに参って信心の稽古をしておけという事なんです。しかもその信心のけいこがです、野球の事が詳しゅうなるというなら、いわば観衆だって同じ事。何万人の観衆が野球を見ておる。それは野球を見るほどしの人ですから、野球のルールなんかもちゃんと心得ておる。私共は野球が分からんから知りませんけれど。
わざわざ入場料を出してから、見ておるというほどしの人ならば、みんな野球の事は詳しく分かっておるだけ。なら中の選手だって同じ事。ただしね日々の自分は野球をする事試合をする事がです、日頃の稽古にものを言わせて、そこに勝つとか負けるとかは別問題それこそ、ただ面白いだけではなくてです、選手の方達が試合をするのがです。今日一試合すると幾ら儲かるけんち言うたごたる事はしよらんと、私は思うのです。本当にその試合に取り組む。そこにお互いの技を競い合う。
そこに負けても勝っても有り難い楽しいと言う様な事になってくるだろう。だから同じ野球をするでもです。野球を知っておるというだけではなくて、自分自身もねその野球をやり稽古が、いわば野球の稽古である信心でもそうです。金光様の信心の事がそれこそ詳しくなったというだけではなくて、本気で稽古をする気にならにゃいかん。そこで今日は私はね皆さんがみんな、信心のいわば選手を目指さなければいけないと私は申しました。その選手を目指すからです、それこそ稽古しなければおられんのである。
その稽古をしておるからです、ただ面白いだけではない、楽しいだけではない、有り難い。神様を、そこにもここにも神様の働きを感じ取らせて頂けるほどしのおかげが頂けてくる。金光様の事は知ってはおる。おかげ頂かんならんから参っておる。まぁそれもよかろう。始めは観衆でよかろう。けれども一通りの事が解ったら、自分もやはり野球の球が投げられたり、打てれたりするだけのです、それを覚える事が信心の稽古です。ただおかげを頂く稽古じゃない稽古と言うのは。
信心によって本当に日々が有難い。信心によって日々が、神様の働きをそこに実感させて頂いての生活、信心生活が出来る事を願いとする事が信心なんです。観点が違う。そういう意味で、例えば幹三郎達の場合なんかはです、まだ選手にはなっていない。けれども選手を目指しておるのである。だから一生懸命になれるのである。だからその稽古はまだ稽古という事がです、苦しいばっかりで、楽しいものはないようですけれども、やはりそこを乗り越えた所に楽しさが出てくるのです。
信心生活とは神様の働きを、日々刻々そこに神様の働きが感じられると言うことの体験させて頂く、それが信心であり、信心の稽古である。ですからどうしてもです、根本的な姿勢というものを本気で作らなければ、何時までたってもおかげは有難いばってん、普通は有難くないと言うことになる。神様の身近な働きをです、ありよるけれども、その働きを働きと感じ取ることが出来ない。先ほどここで、御祈念前に座らせて頂いておりましたら、高松数子さんが、ここにお礼お届けに出て見えた。
親先生今日は四時の御祈念を頂いておりましたが、先生が丁度御霊様の前に御座りになったのと、電話の架かってきたのが一緒でございました。どっからだろうかと思うたら、むつやから電話がかかって来た。ただ今おかげで、男子の子を安産のおかげを頂きましたという御礼のお届けであった。私もそれを感じた、数子さんもそれを感じてお届けをしておる訳です。御霊様の前に出られる。本当にお母さん、石井清子さんの御霊様、お母さんの御霊様の働きが、そこに感じたから、私は感動したその事で。
本当に有難かね数子さんち言うて、だから数子さんもそこが有難いと思うておる。私もそれが有難いと思うておる。それを他の者が聞いたっちゃ何がなんじゃ分からんでしょう。御霊様の前に出られると同時に電話がかかってきたとこう言う。ただ安産のおかげを頂いただけじゃない。そこにはもちろん神様のおかげと同時に、御霊様がどのくらい、その事を願い、祈っておられたかと言うことを感じ取ったのである和子さんが。
だから私がその事を聞いてほんなこて有難かねち、是は勿論神様のおかげも有難いばってん、御霊様が働きよるこつがわかるねと、口には言わんけれどもその事なんです。二人で感激し合うたわけであります。私は信心とはね本当におかげをそこに感じさせてもらうから。私が親先生にご挨拶を申し上げたようにもし私がです、お話の中に私は申しました。あらこげなこつはちった後から考えた。言い過ぎたっじゃなかじゃろうかと思うた。親先生私は三井教会にご縁を頂いておったという事がです。
最近しみじみと有難いと思うと。これはどうでしょうもし○○教会であったなら。もしこれが親先生じゃなくて、どこかの○○先生であったら、現在の私も合楽も生まれていないと、私は申しました。三井教会であったればこそ。現在の荒巻先生があったればこそ、現在の合楽があるのだと。私はまた実際そう実感してます。だからそれを有難いと思う時にはです、不平もなからねば不足もない。大げさに言うなら我情すら我欲すらが、有難いなぁと思う時にはもうなくなっておる。
これが和賀心につながるのだと最近は言っておるわけなんです。その心が和賀心なんです。そういうおかげを、日々感じさせて頂くためにはです、お互いが野球が詳しくなる、観衆の席に座っておるのではなくて、私自身が球拾いでもいい、本気で一遍はこのバットを握ってみろう、一遍は球も投げてみよう、一遍はホームランをかっ飛ばすようなおかげを頂かせて貰おうというようなです、願いの基に信心がなされなければ、何時までたっても本当の信心の姿勢はできんと思うのですね。
どうぞ。